A vanishing word, a vanishing place.

そしてまたここにたどり着く。

Sometime In Tokyo City

家と周辺半径2kmくらいでしか生活しない日々を続けて幾星霜。天気が良ければ窓を開け、近くに見えるけど遠い副都心やら新都心やらと呼ばれることも忘れたような新宿のビル群をぼんやり眺める。昼でも、夜でもなんだか好きだ。でも夜のほうがいい、航空障害灯がゆっくりと点滅しているのを眺めながら、頭に流れる音楽に身を委ねるのが好きだ。部屋に戻る時、その画面に文字が脳内でテロップづけされる「嫌なら出ていけよ、俺は好きさ東京」。

遠藤賢司の『東京ワッショイ』の歌詞で、原曲はまぁそんな景色の画面には似合わないような激しい曲なんだけど。で、この歌詞が印象的に出てくる漫画があって、よしもとよしともの『東京防衛軍』。ここでの場面も湾岸地域の昼の絵面だし、そんな感じでは決してないんだけど(戦った場所は新宿だけど)。

まぁとにかく副都心のビル群を見て、そして視線を外す時には、いつもその文字が浮かぶっていうだけの話。別に東京の象徴ってわけでもないだろう景色なんだけど、自分にとってはそうなのかなって。都庁が無い時期も覚えてるし、特撮じみたコクーンタワーがないほうが副都心感があるんだけど、とにかくそうなのだからしょうがない。

コロナ禍で逃げる場所もなくて、家にいることが最大の防御でありという中、どこかに行きたいなぁという気分は幾度も訪れたし、僕も県外移動がクリアになったら博多に行こうと思う程度にはどこかに行きたい。でも、別に場所に行きたいわけでもないんだよなって、副都心を見ながら思ったりする。1人でぶらぶらするのも嫌いじゃないけれど、今は人に会いたい、のほうが大きい。でも、その会いたい人にだって、2m間隔を開けて、カウンターの端と端で呑んでも楽しいのかっていうと、違う気がする。向かい合わなくてもいいけど、隣で気配や、声や、飲むペースが、アイコンタクトが、わかる範疇で、会いたい。でも、それはいつになるんだろう? 東京に、日本に、地球に、逃げる場所がないとして、このソーシャルディスタンスに僕は対応できるのだろうか? 嫌でも出ていけない、対応するしかない、けど、けど? そも僕の会いたい人は、このご時世でこの環境で、僕に会いたいと思ってくれるのかな? あの人はどうだろう? あの娘はどうだろう? キミはどうかな?

こんなことを考えても答えはでないので、音楽でもかけて紛らわせる。ここのところはずっとサニーデイ・サービス曽我部恵一だ。15日の渋公楽しみにしてたし、曽我部くんが精力的にアルバムを出したり、配信したりしてる。カレー屋だってオープンした。『スロウライダー』を歌いながら、ささくれだった気持ちを落ち着けて、『真珠』を口ずさんで、会えない人を想い、『時間が止まって音楽が始まる』を聞いて、寝床につく。そんな日々、『 』の中は日によって変わるけども。


曽我部恵一 - Sometime In Tokyo City【Lyric Video】


外に出て良くなったら、下北にカレーを食べに行こう。真っ先に「来ませんか?」と曲に乗せてくれたのは、曽我部くんだったから。