A vanishing word, a vanishing place.

そしてまたここにたどり着く。

And then again, I survived.

 なんの起伏もなく、時間と日々だけが過ぎ去っていっている気がする。気がつけば、7月も過ぎて8月だ。先月、また誕生日を迎えた。また生き延びた。誕生日を祝われるのは幼少期にあまりしてもらえなかったせいで、アラフィフになる今でも好きだ。生き延びたご褒美として、祝われるのに甘えていい日だと思っている。今年は人に会えないぶん、たくさんプレゼントをほうぼうから頂いた。有り難い限りである。

 そして誕生日を迎えたことで、ひとつまた意識を変えようと思った。もう一段階上の諦めをつけようと。繋がったと思った糸がまた切れてしまって、そのまま数ヶ月経っていた。けれど、誕生日なら、また連絡が来るんではないかと、期待しないようにしつつも期待していた。けれど、それはやっぱり無かった。また元通りなんだろう。年に1回僕に勇気が出れば、誕生日を祝うメッセージを送る。その関係性に。それでも、待つのを辞めたわけではなく、諦めというのは「元に戻った」という諦めで、そう思わないことで、この断絶で苦しみ続けるのを抜け出そうという、前向きな諦めでありたいと思っている。別に友達をやめたわけではないから。少なくとも、僕の方は。それでも、音に結びついた記憶は、耳に入る音楽によって、辛かったり、悲しかったり、せつなかったりする。そういうのは仕方がない。そうやって折り合いをつけて、また1年生き延びて行くしかないのだ。

 精密検査の結果も、毎度おなじみ経過観察になった。これも折り合い。値が悪くなれば、精密検査。そうしていくしかない。いっそのこと入院とか手術とかなってくれたほうがと思わなくもないけれど、それはそれでしんどいものなので、これも仕方がない。歳を取るっていうのは、仕方がないとうまくつき合っていくことなんだと思う。なんとかそこまでは生きてみようかと思って、デッドラインを変えてからもう体感で随分経った。そのデッドラインはあと数年なんだけど、実際のところはどうなるかはわからない。今の世の中は得体のしれないVirusに侵され、いつ死んでもわからんという状況下に皆が置かれている。楽観視もいい、恐怖に震えるもいい、でも死なない保証はVirusがなくたってないのだ。死ぬまで生きるしかないのだから。もうあとは本当に死に向かうだけの年齢になってきたので、できることならそれがゆるやかであるといいなと思うくらいで、死にたくないとは思わない。ただ、あと1週間くらい生きたいなぁというのを、延長して、延長していくんだろう。追加料金がいくらかは知らないけど。


 飲食店だけじゃなく、好きな場所、行きたかった場所はどんどんと数を減らしていく。無くなってほしくないと願っても、これもどうしようもない流れになってきている。せめて、Virusとは無関係の所で閉館が決まっている、あの陽の光に溢れた場所には、閉館前にもう一度訪れたい。願わくば、その庭が一番似合う人と。望みは薄くとも。

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