A vanishing word, a vanishing place.

そしてまたここにたどり着く。

There is no point in asking for the moon.

また1年以上、間をあけてしまった。

さて、今日は中秋の名月だ。
さっきベランダから見てみたら、見事なまでの満月が昇って来ていた。
月を意識すると、頭の中で『月の光』が流れる。
しかし、その音から導かれる記憶は爽やかに晴れた原美術館だったりする。
夜なのか、昼なのか。

そんな記憶を思い出しつつも、今年でもう50歳になった。
自分でも正直びっくりしている。
年老いたことにではなく、ここまで生き延びていることに。

早逝してしまった友達は幾人か居たが、僕もその範疇にいると思っていた。
けれど半世紀生き延びてしまった。
僕にとっては明日どうなろうと、別に早すぎる死ではない気がしている。
死ぬまでただ生きる、それが長いのか短いのかは人それぞれ。

老いた、ということにはかなり自覚もあって、それが友人に対する距離感だ。
連絡が取れなくなってしまうことに、昔ほど傷つかなくなった気がする。
それでもあがいたりはしたけれど、老いると諦める方向へ行く。
僕の身体はひとつしかなく、そして老いて活動的にもなれなくなっている。
それは友人や友人だと思っていた人達もそうなんだろう。
そこまで頑張れなくなる時が来る、それが老いだ。

僕はもうそこまで頑張れなくなっている。
全力を出したらなんとかできるとか傲慢な思いも持てなくなった。

そうやって友達が減ったり、ひょんなことからちょっとだけ増えたり。
繰り返してだんだん減っていくんだと思う。
そして、葬儀の時に来てくれるような人は一握りだと思う。
時間とか、距離とか、労力とか、そういうものがもうしんどいのだから。
それは勿論、僕も含めて。
だから、僕も求めないし、求められても答えられないかもしれない。
それでいいんだと思うようになった。

けれど、この歳になって一番の友達であると名言してくれた奇特な人がいる。

太陽と月とまでは言わないけれど、月と星くらいの距離でうまく死ぬまで続けばいいな、とは思う。

どちらが先に逝くのかわからないけど、僕のほうが早いと良いなとは思う。
僕は見送るより見送られるほうがいいから。

天国には行けないので、月のように夜空を見上げても居ないと思うけど。

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But it brings tears to my eyes.

 一度書くとまた書きたくなるのは、仕事から逃避したいだけなのかもしれない。書かなければならない原稿はたくさんあるのに、逃避も文章だなんてなんてことだ。
 しかし、僕は文字にして吐き出すほうが楽なので仕方がない。

 僕のことをよく泣く人間だと思う人はどれくらい居るだろうか?

 ここ何年かよく泣いている気がしているのだが、老化で涙腺が弱っているだけかと思っていたらどうもそうでもないらしい。

 『本音を言おうとすると涙が出てくる』というHSPに関する本のことがネットで回ってきた。ああ、これか! と思った。僕が繊細というわけではない。本音を話そうとすると、涙が出てしまうのだ。彼とのときも、彼女のときも。本心を伝えようとすればするほど、涙が出る。怒ってるわけでもない、悲しいわけでもない、ただ話したいだけなのに、涙が出る。

 先日書いた、悪友というか義兄弟のときも、喧嘩というよりも、なんでか知らんがよう泣いてしまった。涙ぐむくらいじゃなくて、涙がボロボロ出て、ほぼ泣いた。んで、傍から見て泣いてるのが恥ずかしいから巻いて逃げた。

 Season2がなかった彼とのときは、あることを必死で止めようとするがあまり喫茶店で涙が止まらなくなって、しかも「娘と一緒だ」と笑われた。
 その後、僕は本当に憤慨した。眼の前で死んでやろうかと思うくらいには(ということまで思い出してしまった)。

 僕が泣いてても、話を止めない人のほうがいいに決まってる。
 変なやつと思われても、僕が話してるんだから、それを聞いてくれるのが正解だ。
 そして、それは本音なのだ、本心なのだ。

 けれど、泣いてるヤツの話しなんて普通は聞かないだろう。そういうものだ。まずは泣くのを止めようとするだろう。
 違うんだ、自己開示ストレスで、ただ涙が出てるだけで、それによって鼻水も出て、うまく話せてないだけなんだ。

youtu.be
――言いたいことは言わなきゃ始まんない

We fight, but I feel safe with you.

 さて、また日々が過ぎ去った。

 その間にいろいろあったが、これだけは書き残して起きたいと思ったので、久しぶりに文章を書くことにする。

 会えば飲んで7割がた喧嘩していた僕たちだが、ここ数年は穏やかだったはずだ。けれど、こないだは久しぶりに言い合いになって、なんなら昔みたいに巻いて逃げ帰った。もう喧嘩はしたくないと、ずっと思っていたのにもかかわらず、そうなってしまうのはなんなんであろうと、自分でもわからないでいた。またしばらくは会わないんだろうな、会うとまた喧嘩になるだろうしなと思っていたら、割りと短期間で向こうから連絡が来た。まぁ、理由はあくまで、その喧嘩になる前に依頼した話を口実にだが、珍しいことであったことは間違いない。

 依頼とは僕の遺影にするイラストを描くこと。

 昨年くらいから、遺影にもなるようにと人に撮影してもらうことを始めた。それは僕にとって面白い試みでこれからも続けようと思っている。老いていくのを残しておくのもいい、そう思ったのもそうだし、今が一番若いんだから、まぁ他人から見えて僕がどう見えているのかも、知っておきたかったからだ。

 が、そうしているうちに気づいたのだ。僕が遺影に掲げるものは、写真ではないな、と。無論、通常の葬式は写真であろう。なんなら、遺影としてではなく、そこらに貼ってもらう分には構わない。でも、僕が死んだときに葬儀をやってもらえるのなら、その祭壇の真ん中にあるのは、僕の顔であるけれど実写じゃなくってもいいはず、だ。

 だからゆえに、来年半世紀を迎えるまえに依頼した。あんまり乗り気には見えなかった。でも、まぁ僕は君に描いてもらったものがいいんだよ、たとえ似てなくても。むしろあまり似せなくていいからと。君の思う僕がそこにあるのがいいから、と。ちゃんと支払いもする“依頼”として。

 で、それにはやっぱり写真撮っておきたいと言われての今回だった。とはいえ、いままでとはなんか違った。というか、過去にも友達に撮ってもらったことはあるんだが、それとはまた違う感じだった。なんだろうこれ? と思ったが、そうか、恥ずかしいのかと気づいた。撮られるのは解って来ていたのに、カッコつけられない相手に、カッコつけられない場所、カッコつけられない状態で撮られてんだと思ったら、なんかもう暑いのもあって、とっとと引き上げたかった。資料だ、趣味だなんだと言って、勝手に撮ってく相手にもういいから飲もうぜ、と声をかけたのは僕だった。

 もちろんこのあと飲んだのだが、喧嘩にならなかった。くだらない話しをして、笑って帰れた。前回なんで喧嘩になったかの理由も僕のなかでハッキリしたし、また平穏に会える気がする(……いやどうだろうか?)。

 遺影の代わりはどうなってあがってくるんだろう。

 それも気になるが、この悪友かつ友達は僕をどんなふうに撮ったのかも気になる。見せてはくれない気はしているが、そして見たら後悔する気もしているが。たぶん、僕の本当の素を撮られている気がするから。

youtu.be

Does the sea breeze soothe or erode the soul?

 不要不急の緊急事態宣言中ではあるが、都内の水辺を訪れた。風は十分に潮をはらんで、肌をべたつかせる。それでも、ぼんやりと白波を眺め、鴎や行き交う船を見送る。ソーシャルディスタンスもばっちりな場所では、小さいスピーカで音を鳴らしても、怒られることもない。

 誰かにそうしたように、誰かにそうされたように、僕はそうするべきだと決めたから、海とも運河ともいい切れない人工浜のある場所でそうしてきた。心が少しくたびれてしまっている友人のための過ごしやすい場所……水辺を選び、ただただ側に居る。僕ができることはそれくらいしかない。それでよかったのかは僕が決めることでもない。

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 くだらない雑談をしたり、黙ったり、そうしているうちに髪は潮風でバリバリになり、マスクも潮臭くなった気がする。薄曇りの空は少しだけ雨を降らせて、僕らの帰路を後押しした。潮と砂を洗い流したくて、何ヶ月ぶりかに銭湯に行った。上がって出た肌に夜風が気持ちよかった。たぶん、これでいいんだろう。たぶん。正解はわからない。後になってこれでよかったんだと相手が思い出してくれれば、正解なだけ。


 いつかできたことも、できなかったことも、たくさんある。いまできることはこれくらい。分断された世界で、側にいるよ、と側にいる。それだけ。

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It's a minefield, so it's off-limits.

 今年も8月12日がやってきた。僕は別に犠牲者の家族でもなければ、知り合いに犠牲者がいるわけでもない。しかし8月12日という日は、当時12歳の僕にしっかりと刻み込まれた。けれど、毎年追悼のなにかを述べているわけでもない、むしろひとりで忘れないようにしているだけであった。

 僕は一時期羽田に住んでおり、整備場のある施設でアルバイトをしていた。アルバイトに受かり、初出勤のその日。僕だけではなく、他のフロアや施設での初出勤の者たちが一箇所に集められた。羽田空港関連施設で働くにあたっての研修です、そんな風に聞いて連れて行かれた場所は、第2総合ビル2階にある『安全啓発センター』だった。そこは資料館のようなもので、日本空港123便墜落事故機の後部胴体や尾翼の残骸、後部圧力隔壁、ボイスレコーダー、フライトレコーダー、破壊されたエコノミークラスの座席、救命胴衣、事故に関する新聞記事、事故の様子を捉えた写真、そして犠牲者の遺品が展示されている。また膨大な事故原因の調査ファイルなどが図書館のようにずらりと並んでいた。僕のアルバイト先は同じビルに入っているものの、日本航空ではなく、航空機器の会社であった。それでも、そこに皆行った。末端のアルバイト、でも、だ。空港や航空に関わって働く者、これを忘れるべからずという強い意思を感じる研修だった。

 そして今年、ある演劇を観に行った。NODA-MAP『フェイクスピア』。大好きな白石加代子さんが出るというし、高橋一生の舞台ってのも観たことないしな、と、なにも前情報無しに観に行った。

 もう公演が終わっているので遠慮なくネタバレさせてもらうが、恐山から始まる少しコミカルな舞台は、高橋一生のセリフにより僕をだんだんと緊張させた。記憶喪失の高橋一生の役が不自然に発するセリフ、それは高濱機長の遺された声であった。それに気づいたとき、僕は全身に鳥肌が立ち、即座に席を立とうかと思った。あれはこんな風に役者の声で聞くものではない! と。それでも、もしかしたらただ単にネタとして使われているのではないのかも、と信じて観続けて、それは裏切られた。123便の最期を、安全啓発センターで見聞きした事実とリアルを、不自然に盆の上で再現しようとしたものだった。墜落時の表現をキャスター付きの椅子で右往左往することでなにが解るというのだ。僕はあまりの怒りに涙を流した、こんなものだと知っていたら観に来ることもなかった。僕はカーテンコールで拍手をせず、席を立った。開演前にパンフレットを買ったことを後悔し、1pもめくらなかったそれは、これから観に行くという人に郵送で譲った。とにかく、手元に置いておきたくなかった。

 僕はこの演劇を許すことができなかった。なにより、36年前にテレビで見聞きしたもの、その後新聞や事故写真集で見たもの、なによりも安全啓発センターで見聞きした事実以上に、こんな余計なノイズはいらないと思った。演じて伝えるものではないと思った。野田秀樹だから、彼は悪趣味だからで、許すことはできなかった。何年も前に同じようなものを公演しているとかどうでもよかった。僕の記憶からこの演劇のすべてを消し去りたかった。観てしまった事実は変わらないけど、できる限りなかったことにすることにした。

 そして、今日が来た。
 僕はなかったことにしたものをここに記すことにした。
 今年だけは、ひとりで静かに安全を願い、追悼することをやめた。

 36年経った今、安全啓発センターは移転し、少し規模も大きくなったようだ。現在はCOVID-19のため一般公開はしていないが、平日なら予約さえすれば訪れることができる。あんなものを観るよりは、あんなもので知るよりは『安全啓発センター』に行って欲しい。昨日今日公開されているニュース記事を見て欲しい、そして正しく知ってほしい。さらには、飛行機に乗る時は、客室乗務員の指示に従い、安全のしおりをちゃんと読んで欲しい。

 できることならば、小平尚典氏の4/524 日航123便御巣鷹山墜落事故写真集』を読んで欲しい。いまならKindle Unlimitedで無料で読める(ただモノクロであるとはいえ、あまりに凄惨な事故現場と犠牲者、そして生存者のありのままの姿が記されているので、注意してほしい)。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00ZZ5BDJW/ref=cm_sw_r_tw_dp_6SGJ5GGPA97S4545FRVN

 もう少しライトに、というのであれば、御前モカ氏の『CREWでございます』シリーズを読んで欲しい。新刊も8/16に出る予定だ。

Amazon.co.jp: 御前 モカ:作品一覧、著者略歴

 本を買うのはちょっと……というのなら、ご本人が公開しているのでこの回だけでも読んで欲しい。

 
 あと1時間もせずに、18時56分27秒92 がやってくる。
 どうか今日も空が安全でありますように。
 この日のことが正しい形で語り継がれますように。



A journey of a thousand miles begins with a single step.

 また時間が開いてしまった。が、僕だけではなく、様々な人々がよくわからない1年を過ごした2020年だったので、致し方ないと思うことにする。

 で、1年なにをしていたか、正確には前回の記事からなにをしていたかというと、ダイエットは続けていた。年末年始に食って呑んで寝してぶり返したりしたが、先日第一目標である-9.9kgを達成し、本日計測では-10.3kgである。これは自分を褒めてもいいのではないだろうか? ちなみに第一目標がなぜ-10kgではなかったかというと、昔-10kg以上落とした結果、アキレス腱を切ったからである。因果関係は不明だが、見事にトラウマになったのだ。まぁ、それはさておき、ともあれ第一目標達成は嬉しいものです、はい。

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 去年の6月の記事で-5kgとか書いてて、まぁやってることはほとんど変わらないのですが、ゆるゆるやってるので停滞もし、やっぱり飲まないのは無理だなってなり、寝正月でぶり返しもし、今年の3月からはさすがに一人では無理だなーと思って、パーソナルトレーニングに週1通い始めた。これは体重が減るにしたがってトラウマが怖くなってきたせいもあったり、流行のリングフィットアドベンチャーなどにも手を出したが、ゲームに夢中になってフォームとか気にしなかったせいで膝をやらかしたせいでもある。年寄りには危険だ、あのゲームw

 で、見た目は変わったかというと……自分ではそんな感じもなかったんだけど、ある時、ジーンズが半ケツになるくらいずり下がった事案があって、その時初めて「ああ、痩せたんだ」と気づくという感じ。まだまだあくまで標準体重であって、適正体重ではないし、そんなもんなんでしょう。というわけで、第二目標は体脂肪率を10%下げる、です。これはなんつーかもう、筋肉をつけるしかないとこもあるのでパーソナルトレーニングのトレーナーと地道に頑張っていこうかと。つか、筋トレはマジしんどい。毎回ヒィヒィ言ってます。

 とりあえず、今年の健康診断で肥満とかメタボがつかないことは確定なので、早めに予約を取ろうと思います。
 

There was definitely a light there.

 ここのところ、美術館によく足を運んでいる。なんとなく日常にくたびれていて、それでもなにかインプットや刺激が欲しい。でもなるべく人の多いところは避けたい。そういう今のご時世や自分に合っているのが、時間制で人数制限がされている美術館であった。暇があれば美術館に通い、知識の思わぬ収穫や絵との出会いがあるなかで、またCOVID-19の感染者が増えていった。そうなるとまた外に出歩くのも気をつけなければならないだろう、冬はこれからだ。

 だからこそ、今のうちにと原美術館へ行った。自分の中で見納めをしなければ、と思ったのだ。原美術館は来年1月11日に閉館する。本来は今年の12末に閉館する予定であったが、COVID-19で閉館がすこし延期された。とはいえほんの少しだ。もう一度一緒に訪れたい相手は居たが、もう無理だろうと一人で行く覚悟を決めた。できることならば、天気のいい午後に行きたい。そう思って予約した日は、幸いなことに見事なる青空が広がる日だった。

 白く美しい建物は1年前に訪れたときよりも、少し雰囲気が変わって見えた。喫煙所は消え、入口には事前予約でなければ入れない旨の看板があり、検温消毒を促す係員が居た。受付で予約をつげ、入場料を支払うといつもどおりの言葉を投げかけられる。
「館内は中庭も含め、全館撮影禁止です」

 今回の企画展は『光―呼吸 時をすくう5人』というもの。写真や映像があの建物の中で本当に窓のように並んで不思議な空気感を作っていた。どの作品も良い空気感であったが、佐藤時啓さんという作家さんの作品がスッと、それこそこの建物の空気として入り込んできた。ペンライトの光と呼吸、そして原美術館自体。美しかった。他の方もどれも原美術館の建物に合っていた。常設展示物と変わらぬように、午後の陽射しの中で佇み、訪れる者の好奇心を満たしていった。展示物の中にアップライトピアノがあり、自動演奏でドビュッシーの月の光が流れていた。佐藤雅晴さんの作品だった。窓からの陽光が注ぐ場所で、ゆるやかに夜の気配を漂わせて、それが不思議と心地よかった。ピアノの音をかすかに聞きながら、今井智己さんの福島第一原発からの距離が書かれた作品群を眺める。原美術館は231kmの距離。Lee Kitさんの作品は窓からの光とは違うプロジェクターでの光によって自分の影がかかることで、さまざまな作品に変化した。城戸保さんの作品は光と色がまばゆい日常の延長にある不思議な空気だった。

 せっかくなのでカフェでお茶をした。やや日陰になった時間、中庭のテラスで温かいウールの毛布に包まれてほろ苦い珈琲を飲んだ。居ない光を思い浮かべていると、青空をボーイングが切り裂いていく。この光景を残せないのは残念だなと思い、とてもジェントルな店員さんにテーブルの上も撮影禁止ですかねと伺うと、テーブルの上は大丈夫ですとお答えいただいた。いつものように入口だけ撮るのではない写真が撮れたのは嬉しかった。思えば僕も1年前と雰囲気を変えているなと、中庭を眺めながら思う。1年前は髪の毛も短かったし、なによりOrbitalが開いてなかった。

 原美術館をあとにして、当然のように楽水橋を渡った。青空とくすんだ運河の水。脳内のBGMはまだ月の光のまま。ゆるゆると天王洲運河を歩いた。さっきよりも真上を飛ぶ旅客機を顎を上げて眺めた。紅い空が少なくなってくるまでぼんやりと過ごした。

 一人でこのルートを辿ることには意味が少なからずあった。一人で原美術館を見納めることにも。光と呼吸、そして潮の香り、重油の匂い。ジェット音と子どもたちの嬌声。読点か句点をどこかで打たなければ、進めない気がして。時間だけは過ぎていたけど、Orbitalのホールはいまだに安定していない。読点か句点を打てたのか、わからないけど、あれからもう一度行かなかったことで打てなかった何かは打てたんだと思う。楔かもしれないけれど、棘かもしれないけれど。

 

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