A vanishing word, a vanishing place.

そしてまたここにたどり着く。

There was definitely a light there.

 ここのところ、美術館によく足を運んでいる。なんとなく日常にくたびれていて、それでもなにかインプットや刺激が欲しい。でもなるべく人の多いところは避けたい。そういう今のご時世や自分に合っているのが、時間制で人数制限がされている美術館であった。暇があれば美術館に通い、知識の思わぬ収穫や絵との出会いがあるなかで、またCOVID-19の感染者が増えていった。そうなるとまた外に出歩くのも気をつけなければならないだろう、冬はこれからだ。

 だからこそ、今のうちにと原美術館へ行った。自分の中で見納めをしなければ、と思ったのだ。原美術館は来年1月11日に閉館する。本来は今年の12末に閉館する予定であったが、COVID-19で閉館がすこし延期された。とはいえほんの少しだ。もう一度一緒に訪れたい相手は居たが、もう無理だろうと一人で行く覚悟を決めた。できることならば、天気のいい午後に行きたい。そう思って予約した日は、幸いなことに見事なる青空が広がる日だった。

 白く美しい建物は1年前に訪れたときよりも、少し雰囲気が変わって見えた。喫煙所は消え、入口には事前予約でなければ入れない旨の看板があり、検温消毒を促す係員が居た。受付で予約をつげ、入場料を支払うといつもどおりの言葉を投げかけられる。
「館内は中庭も含め、全館撮影禁止です」

 今回の企画展は『光―呼吸 時をすくう5人』というもの。写真や映像があの建物の中で本当に窓のように並んで不思議な空気感を作っていた。どの作品も良い空気感であったが、佐藤時啓さんという作家さんの作品がスッと、それこそこの建物の空気として入り込んできた。ペンライトの光と呼吸、そして原美術館自体。美しかった。他の方もどれも原美術館の建物に合っていた。常設展示物と変わらぬように、午後の陽射しの中で佇み、訪れる者の好奇心を満たしていった。展示物の中にアップライトピアノがあり、自動演奏でドビュッシーの月の光が流れていた。佐藤雅晴さんの作品だった。窓からの陽光が注ぐ場所で、ゆるやかに夜の気配を漂わせて、それが不思議と心地よかった。ピアノの音をかすかに聞きながら、今井智己さんの福島第一原発からの距離が書かれた作品群を眺める。原美術館は231kmの距離。Lee Kitさんの作品は窓からの光とは違うプロジェクターでの光によって自分の影がかかることで、さまざまな作品に変化した。城戸保さんの作品は光と色がまばゆい日常の延長にある不思議な空気だった。

 せっかくなのでカフェでお茶をした。やや日陰になった時間、中庭のテラスで温かいウールの毛布に包まれてほろ苦い珈琲を飲んだ。居ない光を思い浮かべていると、青空をボーイングが切り裂いていく。この光景を残せないのは残念だなと思い、とてもジェントルな店員さんにテーブルの上も撮影禁止ですかねと伺うと、テーブルの上は大丈夫ですとお答えいただいた。いつものように入口だけ撮るのではない写真が撮れたのは嬉しかった。思えば僕も1年前と雰囲気を変えているなと、中庭を眺めながら思う。1年前は髪の毛も短かったし、なによりOrbitalが開いてなかった。

 原美術館をあとにして、当然のように楽水橋を渡った。青空とくすんだ運河の水。脳内のBGMはまだ月の光のまま。ゆるゆると天王洲運河を歩いた。さっきよりも真上を飛ぶ旅客機を顎を上げて眺めた。紅い空が少なくなってくるまでぼんやりと過ごした。

 一人でこのルートを辿ることには意味が少なからずあった。一人で原美術館を見納めることにも。光と呼吸、そして潮の香り、重油の匂い。ジェット音と子どもたちの嬌声。読点か句点をどこかで打たなければ、進めない気がして。時間だけは過ぎていたけど、Orbitalのホールはいまだに安定していない。読点か句点を打てたのか、わからないけど、あれからもう一度行かなかったことで打てなかった何かは打てたんだと思う。楔かもしれないけれど、棘かもしれないけれど。

 

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